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1968年10月、新宿に燃え上がる炎を見つめる少年がいた。
その眼差しが、物語を生む。
その日、10.21新宿騒乱事件。新宿駅はベトナム戦争反対を叫ぶヘルメット姿の学生たちであふれた。新宿駅を通って中央線経由で米空軍の横田基地へ送られる、ジェット燃料輸送を止めようとする実力闘争だった。
当時、アメリカは50万の大軍をベトナムに送り込み、宣戦布告なき戦争を戦っていた。その最大の支援拠点が、日米安保条約に基づき米軍基地の展開する沖縄と日本本土だった。アメリカはベトナムを巨大な軍事力でねじ伏せようとしていた。前線で戦わされる米兵たちの多くは、新宿に集まった学生たちと同じ世代だった。
少年Aは中学3年生だった。兄が一人いて、父親は中学校の教員。地方都市の、少し教育熱心だがごく普通の家庭で育った。成績は一応クラスの上位に入っていた。高校から大学へ進むのが、自然に感じられる家庭環境だった。
学生と機動隊が衝突する映像は、Aの目を捕らえて離さなかった。そこに映し出されていたのは、いわば自分の先輩たちの姿だ。映像を見ていると、機動隊との闘いが彼らの主張をストーレートに表しているように思えた。共感が湧いた。
Aが高校に入学した'69年、ベトナムの戦火はやむどころか、隣国のカンボジアにも広まった。全国の大学で大学生たちはストライキを決議し、授業をボイッコットした。キャンパスは彼らが築いたバリケードによって、次々に封鎖されていった。その波は、大学受験生が多い高校にも及んだ。
Aは兄が大学生だったこともあり、自分自身も何かをせずにはいられなかった。彼が友人とベトナム戦争に反対するビラを初めて配ったのは、二学期の始業式の日だった。彼らを、学校や親は頭ごなしに封じ込めようとした。Aたちがヘルメットを被るようになるまで、そう時間はかからなかった。
その秋、Aの兄が逮捕された。8月に結成された赤軍派のメンバーとして、山梨県大菩薩峠で鉄パイプ爆弾の投げ方などを訓練しているときだった。訓練に参加した53人全員が逮捕された。赤軍派は武器を使う最も急進的な軍事路線を主張し、それを実践しようとしていた。大菩薩峠の訓練は、学生運動の活動家にはセンセーショナルな出来事だった。
翌年1月、釈放された兄が家に帰ってきた。兄の話はAの心を捕らえた。政府は全国に広まったベトナム反戦や反安保の声を、なりふり構わず力ずくで制圧しようとしていた。その圧倒的な国家権力に対抗するには、赤軍派が主張するように武装した組織が必要だと思えた。
やがて、兄はAにも告げず行方をくらませた。
Aたちが連合赤軍となって「あさま山荘」を占拠する、2年前だった……。
その後、政府は自衛隊の海外派兵を招いた安保条約の自動延長、米軍基地の現状維持を認めた沖縄返還、ずさんな公共事業のモデルケースとなった成田空港建設など、現在の日本が未だに解決できない様々な問題の種を矢継ぎ早にまいていった。反対や異議を唱える声は、すべて機動隊の壁に弾き飛ばされた。
Aはそれを歯ぎしりをする思いで見つめていた。赤軍派は議長の逮捕、「よど号ハイジャック」による北朝鮮への脱出、レバノンでの日本赤軍結成などにより重要な幹部が次々に姿を消してしまった。指導者を失った赤軍派が、思想の異なる京浜安保共闘と合流して連合赤軍を結成したのは、次の年の7月だった。
Aは17歳になっていた。
1972年2月28日、「あさま山荘」。
警察に対する銃撃戦が始まり、10日が過ぎた。
日中も氷点下に凍てつく軽井沢で、山荘は連日放水される水が凍り氷柱に覆われていた。
午前10時、包囲する機動隊の総攻撃が始まった。屋根裏で警察の動きを監視していたAは、ポケットからつかんだ飴玉を口に放り込むと、ジュラルミンの盾に隠れながら近づいてくる機動隊員にライフル銃を発射した。
戦後と呼ばれた日本の終焉を告げる銃声だった。
そのとき、雲間からさす陽光を反射していた氷柱が一本、折れて落下した。
Aの眼差しに、2ヶ月前、同志たちの手で粛清された兄の顔が浮かんだ。
彼はいま、本当の敵に銃口を向けていた。
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