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2006年12月 アーカイブ

2006年12月21日

撮影再開 !!

12月20日

20日あまりの準備期間をおいて、東京都内でロケが再開された。

010001_3 連合赤軍は、突如出現したわけではない。高揚した学生運動が政府によって強圧的に押さえ込まれていった'60~'70年の歴史の結果として、彼らは生まれた。今日から始まった都内とその周辺での撮影は、その連合赤軍が結成されるまでの経過が中心だ。
まずは、都心に残る古いアパートで、赤軍派の幹部だった高原浩之が逮捕されるシーン。'70年3月、日航機「よど」号をハイジャックした赤軍派は警察の集中的な攻撃にさらされ、有力なメンバーが次々に逮捕される。そのなかで、逮捕も指名手配もされなかった森恒夫が徐々に赤軍派の指導権を握り、やがて政治思想も活動体質も異なる革命左派(京浜安保共闘)と連合赤軍を結成した。
次の撮影は、革命左派のメンバーだった早岐やす子が逃亡するシーン。逃亡した早岐は、同じ頃逃亡した向山とともに、、その直後の'71年8月、情報漏れを恐れる永田洋子らによって殺害さた。じつは、榛名山での「敗北死」が始まる4ヶ月前に、すでに犠牲者がでていたのだ。
これも、彼らの足跡を知るためには欠かせない事実だ……。
この映画は、事実を追いながら展開してゆく。そういった意味で、都内と周辺での撮影は、'60~'70年の学生運動の歴史をたどってゆくことになりそうだ。
                                                                 

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2006年12月22日

「あの時代」を生きる

12月21日

今日も昨日と同様、都内を転々としながら矢継ぎ早の撮影。おもに、連合赤軍のリーダーとなった森恒夫や、この映画の主人公でもある遠山美枝子の足取りが撮られてゆく。
森は、じつは赤軍派結成直前に、活動から逃亡した。しかし、今回の撮影で最初に撮られた'69年11月の大菩薩峠の事件(この日記の11月10日参照)で壊滅的な打撃を受けた赤軍派は、メンバーの確保のために、出身地の大阪に帰っていた森の復帰を認める。この逃亡が彼のトラウマになり、連合赤軍メンバーの「総括」につながったのではないかという、見方もある。

森が大学の先輩でもある赤軍派政治局員の田宮高麿(翌'70年3月、日航機「よど」号をハイジャックして北朝鮮へ脱出)から復帰を許されるシーンは、多摩川河口を淀川に見立てて、羽田付近で撮影された。

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020002_1 連合赤軍の榛名ベースで殺された遠山美枝子は、のちに日本赤軍のリーダーとなる重信房子の親友だった。遠山は通っていた明治大学で、重信からオルグ(勧誘)されて学費値上げ反対闘争に参加した。二人は「ミエコ」「フー」と呼び合う親友になり、重信が日本赤軍を結成するためにレバノンへ脱出した('71年2月)とき、最後に彼女を見送

020003_3 ったのも遠山だった。                                                                                                               
じつは、この遠山と重信は若松監督と深く関わっている。
若松監督が'71 年夏、足立正生と、パレスチナの闘争を描く『赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言』を撮影したとき、現地で協力したのは重信だった。その後足立が日本赤軍に参加し、若松監督は彼らに会うため毎年のようにレバノンのベイルートへ通い始める。

遠山は、その映画『赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言』の上映運動のために、当時原宿のセントラル・アパートにあった若松プロに出入りしていた。
そういった彼女たちとの実際の関わりが、この映画製作に対する若松監督の大きなモチベーションになっている。登場人物同様、彼もまた「あの時代」を生きたのだ。重信と遠山が登場するシーンは、若松監督のおなじみの場所、新宿ゴールデン街でも撮影された。

(上、若松作品を高く評価する社会学者・宮台真司も応援に。下、伴杏里が演ずる重信房子)

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2006年12月23日

もうひとつの流れ

12月22日

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(↑実在した銃砲店に擬せられた空き店舗)

赤軍派とともに連合赤軍を結成した革命左派(京浜安保共闘)は、当時中国で起きていた文化大革命の影響を濃く受けたグループだった。革命左派は、社学同ML派(社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派)の元委員長河北三男らが、文化大革命を支持して日本共産党から除名された神奈川県委員会の一部と合流して作った党派だった。最初は日本共産党革命左派神奈川県委員会、略して日共革命左派と名乗っていた、マスコミは共産党から執拗な抗議を受け、彼らをその大衆組織である京浜安保共闘の名で呼ぶようになる。
その革命左派(京浜安保共闘)が一躍知られたのは、'70年12月に、警官の拳銃を奪おうとして、逆に警官から一人が射殺された上赤塚交番襲撃だった。この射殺への抗議集会を通して、革命左派と赤軍派は結びついてゆく。
交番襲撃に失敗した革命左派は、翌'71年2月に栃木県真岡市の銃砲店を襲い、猟銃や実弾を入手。マスコミからは「ウルトラ過激派」と名付けられる。この銃を使うために、連合赤軍が結成されたと言ってもよい。
今日は、千葉県下の本物の銃砲店とその隣の空き店舗で、その銃砲店襲撃のシーンが撮影された。

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さらに、'71年8月、革命左派が情報漏れを恐れ、活動から離脱した早岐やす子をに処刑するシーンも撮影。これがのちの榛名山や迦葉山などでの同志粛清につながってゆく。

そういった意味で、沖縄返還協定が締結されたこの'71年を軸に、彼らも日本も、大きく方向を変えたのかもしれなかった。 

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2006年12月24日

赤ヘル軍団登場 !!

12月23日

040006_1 埼玉県庁に、ヘルメットにゲバ棒を持った学生が出現!!……、といっても、それはこの映画の撮影のためだ。今日は100名以上のエキストラを動員して、集会やデモなどのシーンが撮影された。協力してくださった方々、ありがとうございます。

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東京に隣接しながら古い建物や豊かな田園風景を多く持つ埼玉県は、4年前から「埼玉ロケーションサービス」という業務を開始し、映画、テレビなどの撮影に協力している。現在使用中の県庁の本庁舎も、休日には撮影に使用できるのだ。'60~'70年代の建物の大学構内を思わすその庁舎で、主人公の遠山美枝子と重信房子が出会うシーン、赤軍派の母体となるブント(共産主義者同盟)の防衛庁襲撃、内ゲバへの出発などのシーンも撮影された。

遠山と重信は1966年、明治大学の学費値上げ反対闘争のなかで知り合う。二人とも社会人としての大学入学であり、共通の友人もいて親しくなる。日本の高度成長が頂点に達するこの時期、大学の在り方も変化しつつあり、明治大学を始め、中央大学、早稲田大学などで学費値上げに反対する学生たちの運動が起こる。そして、ベトナムでは、アメリカが現在のイラク戦争同様、戦争を拡大させつつあった。                      

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'67年10月、学生たちは、当時の佐藤首相がアメリカに協力するためにベトナムへ行くのを実力で阻止しようと、羽田近辺で警察の機動隊と激しく衝突。京都大学の山崎博昭が殺された。これによって学生運動は一気に拡大し、翌'68年10月の新宿騒乱事件へつながってゆく。そして、全国の大学で全共闘(全学共闘会議)などによる授業ボイコット、キャンパスのバリケード封鎖が起きる。そういった時代背景のなかから連合赤軍は生まれ、やがて「あさま山荘」の銃撃戦を展開する。学生運動が高揚してゆく過程を描くのが、今日の撮影だった。

04a0001 まさにその時期、若松作品のシナリオを数多く手がけた足立正生も、今日の撮影現場に姿を現した。足立は前述のように『赤軍-PFLP世界革命戦争宣言』を若松監督ともに撮影した盟友でもある。その盟友も、若松監督が長年温めてきた作品の撮影とあっては、じっとしていられなかったらしい。当時のジグザグデモなど知るよしもない若い世代のデモを眺めて、目を細めていた。

なお年内の撮影は今日で終わり、来年は1月7日前後から、撮影が再開される。

(下左、撮影に協力してくださった埼玉県新産業育成課の方たち。下右、イメージカット。

左・遠山美枝子[坂井真紀]、右・重信房子[伴杏里])

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2006年12月27日

エキストラ大募集

1)募集日、人数
 '07年1月13日(土曜日)男性60人
 '07年1月14日(日曜日)男性15~20人

2)撮影場所
 JR南武線、鶴見線「浜川崎駅」付近のセット

3)集合場所・時刻
 ・追って連絡

4)募集条件
 ・10代~30代の男性
 ・黒髪の方(茶髪は不可。ピアスは,はずしていただきます。)

5)撮影シーン及び服装
 ・1960年代末の学生運動で、大学構内の自治会室のシーンなどに、学生役で出演していただきます。
 ・夏のシーンです。コートや上着は脱いでいただきます。
 ・1960年代末の学生なので,地味なシャツやジャンパー、ジーンズなどで参加してください(短パン不可)。

6)注意事項
 ・出演料,交通費の支給はありません。自己負担となります。
 ・必要に応じて,各自で飲食物を用意してください。
 ・体調が悪くなった場合を除き,撮影終了までご参加ください。
 ・雨でも撮影を行います。

7)応募方法

下記アドレスへ、E-mail で受付ます。

wakamatsugumi-rengousekigun@hotmail.co.jp

 ・①氏名 ②年齢 ④連絡先電話番号(携帯可)⑤住所を明記ください。
 ・複数で参加する場合は,代表の方の氏名・連絡先を記入したあとに,一緒に参加する方の氏名,年齢,住所を記入してください。
 ・応募いただきました個人情報は,この撮影のみに使われます。

(↓前回の埼玉県庁ロケに、エキストラで参加してくださった方々)

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