12月22日
(↑実在した銃砲店に擬せられた空き店舗)
赤軍派とともに連合赤軍を結成した革命左派(京浜安保共闘)は、当時中国で起きていた文化大革命の影響を濃く受けたグループだった。革命左派は、社学同ML派(社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派)の元委員長河北三男らが、文化大革命を支持して日本共産党から除名された神奈川県委員会の一部と合流して作った党派だった。最初は日本共産党革命左派神奈川県委員会、略して日共革命左派と名乗っていた、マスコミは共産党から執拗な抗議を受け、彼らをその大衆組織である京浜安保共闘の名で呼ぶようになる。
その革命左派(京浜安保共闘)が一躍知られたのは、'70年12月に、警官の拳銃を奪おうとして、逆に警官から一人が射殺された上赤塚交番襲撃だった。この射殺への抗議集会を通して、革命左派と赤軍派は結びついてゆく。
交番襲撃に失敗した革命左派は、翌'71年2月に栃木県真岡市の銃砲店を襲い、猟銃や実弾を入手。マスコミからは「ウルトラ過激派」と名付けられる。この銃を使うために、連合赤軍が結成されたと言ってもよい。
今日は、千葉県下の本物の銃砲店とその隣の空き店舗で、その銃砲店襲撃のシーンが撮影された。
さらに、'71年8月、革命左派が情報漏れを恐れ、活動から離脱した早岐やす子をに処刑するシーンも撮影。これがのちの榛名山や迦葉山などでの同志粛清につながってゆく。
そういった意味で、沖縄返還協定が締結されたこの'71年を軸に、彼らも日本も、大きく方向を変えたのかもしれなかった。