1月13日
今日の撮影は、ハードだった。
午前8時に撮影を開始、午後8時過ぎに終了。予定していたシーンをすべて撮り終えた若松監督も、さすがに「今日は疲れた」とつぶやいて椅子に腰を下ろす。川崎5スタジオでの撮影が終わった。
スタジオの中には、かつて大学で起きた『バリケード封鎖』の光景が出現した。1968年~'70年にかけて、全国各地の大学では不正経理や学生の誤認処分など様々な問題が噴出し、その問題を追及する学生たちが全共闘(全学共闘委員会)を結成。彼らは、授業をボイコットするために机や椅子などでバリケードを造り、校舎を使用不能にした。のちに連合赤軍を結成する赤軍派は、そんな騒然とした時代のなかで誕生したのだ。
発端は、当時高揚する学生運動の一角を占めた政治組織ブント(共産主義者同盟)の内部対立だった。武装部隊による蜂起を目指す関西派と、大衆的な闘争を主張する関東派は、それぞれの指導者に対する内ゲバによって分裂。武装闘争を掲げ、塩見孝也(坂口拓)を中心とする関西派が共産同赤軍派を名乗った。この映画の主人公のひとり、遠山美枝子は親友の重信房子とともにその赤軍派に所属していた。
今日のおもな撮影は、関東派のリーダーさらぎ徳二と関西派のリーダー塩見孝也が、交互に襲われるシーン。襲撃は、当時バリケード封鎖中だった大学の構内で起きた。そのバリケード封鎖を再現したのが、川崎5スタジオの3階と4階に組まれたセットだった。
若松監督の友人、佐野史郎がさらぎ徳二役として出演。60人以上のエキストラを動員する大がかりな撮影になった。エキストラで出演する若者たちは、もちろん当時の大学の状況など知るよしもない。だが、ヘルメットを被り、タオルで覆面をし、ゲバ棒と呼ばれる角材を手にした青年たちが机や椅子で作られたバリケードの中に現れると、そこに40年近く前の時代が現実となって浮上してきた。
若松監督の作品は、その時代の若者に圧倒的に支持された。当時の若松作品を高く評価するミュージシャンのジム・オルークも、今日、撮影現場を訪れた。すると、ジムのファンだという佐野史郎が大感激。この意外な遭遇の一方、出番を終えた出演者たちは今日も次々に現場を去ってゆく。映画の撮影現場は、人が出会い別れる場でもある。
川崎5スタジオでの撮影は、関東派に囚われた塩見孝也たちが、監禁されていたバリケード封鎖中の中央大学の学部長室から、消火ホースを使って脱出するシーンで終了。
スタッフと出演者は、来週再び宮城県大崎市の鬼首のロケ地へ戻り、この映画のクライマックスでもある「あさま山荘」の銃撃戦を撮影する。