歴史と映画と情熱
8月6日、原爆の日。
日比谷図書文化会館の大ホールにて
第二回新藤兼人映画祭が行われた。
新藤兼人監督の「原爆の子」と遺作となった「一枚のハガキ」
そして若松孝二監督の「恐るべき遺産 裸の影」と「キャタピラー」上映。
「キャタピラー」上映後に、主演の大西信満さん、社会学者の宮台真司さん
共同通信社の編集委員の立花珠樹さん、若松プロスタッフとして大友麻子が
トークをさせていただいた。
この企画、2年前に新藤兼人監督の「原爆の子」を観て衝撃を受けたという
御手洗志帆さんが、新藤兼人監督100歳のお祝いの映画祭を準備していた昨年
新藤監督は遺作「一枚のハガキ」を遺して逝去。
お祝いの会は、急遽、追悼映画祭に切り替わったという。
喪失感の中にあった御手洗さんは、「11.25自決の日」の劇場での
「社会問題と闘い続けた新藤さんは、唯一尊敬する監督だった」という
若松監督の言葉と出会う。
その若松監督も昨秋に交通事故で逝去。
しかし、御手洗さんは、今年も第二回映画祭を原爆の日に敢行。
「俺が死んでも作品は残る」が口癖の若松監督。
「まさに、若松さんの思いが貫徹されましたね」と宮台さんがトークで語った。
「若松監督が『キャタピラー』で言いたかった事はただ一つ。
見たくないものは見たくない、それは誰もが同じ事。
しかし、それでよいのか、と。恥を知れ、という事でしょう。
この社会はクソだ、というのが、かつての若松作品でした。
しかし、奇跡的にガンから生還して以降の若松さんは
社会はなぜクソになったのか、という事を徹底してこだわっておられた」
共同通信社編集委員の立花珠樹さんは、まさに団塊の世代。
大学時代に、大学新聞に「新宿マッド」の書評を書いた事があったという。
また、若松作品の「シンガポールスリング」のロケーションにも同行。
若松作品の現場の作り方などを見て来た上で
「若松さんは、言葉より行動の人だったと思う。
僕らに、言葉で作品を語るよりも、俺がやる事を見ていろ、という人だった」
と語った。
「実録・連合赤軍」以降、若松作品をともに作り上げて来た大西信満さんは
「8月6日、平日昼間。興行的に考えればあり得ない状況でも
この日にこだわって、こうして作品を世の中に訴え続けて行こうという
まさに、若松監督が強く望んでいた事がカタチになった。
迷いなく参加を決めました」と述べ、
キャタピラーの撮影現場での監督の演出についてなど語った。
場内からは、「なぜ、芋虫でなくキャタピラーなのか」
「昨今の政治状況、首相や麻生氏らの発言をどう思うか」
「昨年の熊野大学で、若松監督は次回作の事を考えてるといっていた。
どんな構想があったのか」
「若松監督との関係の中で、特に残っている言葉は」といった質問も。
静かに、しかし作品や言葉に真摯に向き合おうとする
観客もゲストも主催者も一体になったようなイベントの空間は
間違いなく、若い御手洗志帆さんの情熱が作り上げたものだと実感した。
第三回、第四回と、毎年8月6日に、この映画祭は続いて行く事だろう。
そして、作品は永遠にスクリーンの上で新たな邂逅を続けて行く。
8月16日は、ポレポレ東中野にて「恐るべき遺産 裸の影」上映と
塚本晋也監督をお招きしてのトーク。
8月17日は、新文芸坐にて「実録・連合赤軍」「11.25自決の日」上映と
大西信満さん、満島真之介さんのトーク。
8月15日、敗戦の日を前に、終わらない戦後の諸々が全国各地で噴き出している。
「戦死者を悼むのは当然」
「憲法を騒乱の中でなく変えて行こう」
為政者たちの仰天発言が相次ぐ中、日本は暑い暑い68年目の敗戦日を迎える。